『ろう者の祈り』を読んだ
朝日新聞出版から出ている、『ろう者の祈り』を読み終えた。
読む前は”ろう者の祈り”とはかなり主語がでかいなぁと思ってたのだけど、読み終えてみるとこのタイトルにした理由はわかる気がした。
自分は幸い、日本語の読み書きは小さい頃に厳しく躾けられたおかげでそれなりに支障なく出来ている(と思っているが、周りからの評価はわからない)が、読み書きが苦手なろう者も存在するのは事実。
でも、手話で話してみるとスムーズに会話が出来る。即ち、その人にとっては日本語は第一言語ではなく、自分の気持ちを素直に表せる言葉ではないと言うことになる。
そのような方々にとっては、手話が自分の気持ちを素直に表せる言語ということになる。
しかしながら、現在は手話ができる人だけが集まって働ける現場は数少ないので、大抵の人は手話が使えない現場で耐え忍び、働いている。
手話が使えないと言うだけで耐え忍んでいるのに、更に日本語がおかしいと言うだけで差別のような扱いを受け、精神が壊れてしまう人が少なからずいるのが事実。
現場によってどのようなフォローが得られるかは、職業にもよるので一概には言えないが、その人のニーズにあったフォローが受けられるようになって欲しいと思う。
全体的によい内容だったので、職場に聞こえない人がいる人には是非とも読んでいただき、ちょっとでもろう者が置かれている状態を考えるきっかけになればそれが一番著者にとって嬉しいことではなかろうか。
ただ、一点気になることがある。
それは、ろう者イコール手話がわかる、と決めつけているような構成になっていること。
ろう者全員が手話がわかるわけではなく、むしろ、手話がわかるろう者の方が全体から見れば少ないと聞いたことがある。
即ち、大多数のろう者は手話もわからず、耳から日本語を聞くことも出来ず、筆談や口の動きのみでコミュニケーションを取っているということである。
そのような方々を全く取り上げていないのは片手落ちではなかろうか。
手話で話す人は全日本ろうあ連盟の傘下にある、地方団体に籍があるか、それ以外の何かのコミュニティに属しているので話を聞きやすい。しかしながら、手話を使わない人はそういったコミュニティに繋がりがないため、話を聞きにくいと言うこともあるだろうが、結果として益々当事者の話を聞けない悪循環に陥っているように見受けられる。
著者は色々悪評も聞くが、曲がりなりにも日本を代表する新聞社の方なので、どうにかしてそういった方々にも取材し、別の立場に置かれた人の祈りも文章にしていただきたい。
最後に、Twitterで検索した、他の方の書評へのリンクも載せておく。
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